このブログは〝行政発掘〟の魅力を漫画で発信しています!
行政発掘って何!?よく見る遺跡発掘とは何が違うの!?という人も多くいると思うので、できるだけ分かりやすい漫画を描いていけたらと思います。この漫画から見ていただいてももちろんOKですが、〝発掘くつくつ 〜プロローグ編〜〟の方もアップしているので興味があったら是非読んでみて下さいね⤵️


⛏️本編の漫画⤵️
前回の漫画で江戸時代の庶民の茶の文化を書いたのですが、今回のコラムではせっかくですのでお茶の歴史を勉強していきます。以下の文章はいくつかのサイトから引用して要約したものを含みます。参考リンクを貼っておきます。

※出典リンク※以下サイトからの引用です

伊藤園 お茶百科



ブログ 項目

中国の歴史の中で、お茶が登場するのは、「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話からとなっているそうです。
神農は、野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています。この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年(日本なら弥生時代)神農時代と考えられるようです。


 漢の時代(紀元前1世紀)の医学書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』には、「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」の記述があります。すでにこのころ、お茶はよく知られていたようです。また、四川の王褒(おうほう)が記した、主人と奴隷との間で交される契約文『僮約(どうやく)』の中に、「武陽で茶を買う」とあります。これによると、当時すでに飲茶の習慣があり、売買が行われていたことがうかがい知れます。この『僮約』が、現段階では茶具に関する最初の文献とされています。このころからお茶は、主に上流階級に嗜好品として愛飲されるようになります。

唐の時代(760年ころ)、陸羽(りくう)の記した『茶経』は「茶者、南方之嘉木也(茶は南方の嘉木なり)」で始まっていることから、初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。

ブログ 項目

お茶は、日本が中国の制度や文化を学びぶ為に奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されているそうです。

平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているそうで、これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。このころの茶の製法は、「茶経」にある餅茶であったようです。

ブログ 項目

日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きしました。帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説いたそうです。

1214年、栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に、良薬としての茶にそえて、本書を献上したと「吾妻鏡」に記されています。
「喫茶養生記」は、製茶法についても記述がありますが、これは宋代に作られていた蒸し製の散茶であり、碾茶の原型とも言えます。これを粉砕し、お湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいたようです。
華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶と区別しました。鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになったそうです。
鎌倉時代には、禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。さらに南北朝時代になると、茶を飲み比べ、産地をあてる「闘茶」が行われました。

ブログ 項目

足利義満(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537-1598)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていきました。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工されました。

15世紀後半に村田珠光(1423~1502)は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(たけのじょうおう、1502~1555)、千利休(1522~1591)らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。

ブログ 項目

茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなりました。一方、江戸時代では一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していたことが当時の記録からうかがえることができます。庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだったようです。

1738年、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)は、製茶方法を丁寧な方法に改めて、優良な煎茶の製法を編み出し、煎茶の祖とよばれています。これまでにない緑色の水色と甘味、馥郁(ふくいく)とした香りは江戸市民を驚嘆させました。宗円が生み出した製法は、「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。また、より高級な煎茶を開発しようと、碾茶に用いられていた覆下栽培を煎茶に応用する試みが行われ、1835年、山本嘉兵衛(やまもとかへえ)により玉露の製法が生み出されたといいます。

近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で、茶株仲間(江戸の消費地問屋)や、茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)と呼ばれる人々が許可制で茶の取引を行うようになります。
1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸とならぶ重要な輸出品として茶181トンが輸出されました。

江戸時代には庶民もお茶を楽しめるようになりました。

また、お茶の生産が大きく進展した時代でもあったようです。


江戸時代の茶の本「本朝食鑑」(著者 人見必大)によれば 、江戸中期には抹茶は宇治以外に産地がないが煎茶は各地に産地ができていたようです。

17世紀から19世紀にかけて世界でも有数の巨大都市として
発展していた江戸でも、お茶はたいへんよく飲まれていました。
茶は大消費地江戸に送られ、江戸っ子の人気の的となりました。さらに19世紀中頃になると、商品経済の社会がすすんだ江戸では景勝地や神社仏閣の門前などに茶店がたちならび、道行く人々にお茶が売られていました。なかには美しい女性を店の看板娘として給仕をさせることで評判となり、男性客に人気の茶店も数多く登場しました。このようなお茶の広がりは俳句や川柳、童歌などにもみられ、お茶を詠んだものが数多くつくられるなど、江戸時代には庶民の生活の中にお茶が根付いていきました。

(参考文献)
『日本の茶 お茶と文化』角山栄編 ぎょうせい 1988
『茶の湯絵画資料集成』 赤井達郎ほか編 平凡社 1992
『世界のお茶日本のお茶』 熊倉功夫ほか 金谷町お茶の郷振興協会 2000

近江茶の一大産地として知られる甲賀市土山町の製茶の様子

IMG_6122

現在の静岡県袋井市にあたる「出茶屋」
道端で旅人が休憩できる憩いの場だったIMG_6120
✏️発掘くつくつでは漫画を長く描いていく為にクラウドファンディングをやってます❣️魅力的な返礼品も揃っていますので興味ある方は見てみてくださいね⤵️

✏️只今、ウエスティのシニア犬15歳との日常エッセイ漫画 『ちーちゃんですけどもっ』を執筆中です❣️良かったらそちらも覗いてみてね⤵️

🐶第1巻好評発売中です❣️
ちーちゃんですけどもっ! 第1巻【電子書籍】[ おます ]
ちーちゃんですけどもっ! 第1巻【電子書籍】[ おます ]
【POD】ちーちゃんですけどもっ! 第2巻 [ おます ]
【POD】ちーちゃんですけどもっ! 第2巻 [ おます ]
😊良かったら読者登録をお願い致します🙇‍♀️